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ポーランド旅行記-No.1 アウシュビッツ強制収容所訪問


 11月初旬にポーランドに行ってきました。訪問の一番の目的はアウシュヴィッツ強制収容所の訪問です。ドイツのナチス党党首ヒトラーがホロコーストを行った場所で有名です。1979年にユネスコ世界遺産に登録されました。

 アウシュビッツ強制収容所は ポーランドにあるいくつかの強制収容所の一つです。それらの中で最も有名な強制収容所です。現地ポーランドではアウシュヴィッツとは言わず「オシフィエンチム」と言います。「アウシュヴィッツ」という語句は「オシフィエンチム」をドイツ語で発音した読み方なのです。



 当日は、唯一の日本人ガイドである中谷剛さんに案内してもらいました。 私を含めて日本人10人ぐらいの現地ツアーでした。 観光案内というよりかむしろ社会見学という感じでした。 修学旅行らしき学生の団体も多く見かけました。

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 まずは入り口です。「ARBEIT MACHT FREI」と書かれています。これは、 「働けば楽になる」という意味です。 よく見ると、Bの文字だけが逆さまになっています。これには諸説あり、文字を 逆さにすることによって抵抗を表しているとも、当時の流行であったとも言われています。収容所に連行されたユダヤ人に対して、「楽になる」と言うことで彼らに希望を持たせていました。 しかし、当然そのような希望はなく、 一日わずか200キロカロリーと言う 食べ物しか支給されず、また非常に過酷な労働を強いられていたため、多くはこの収容所に連れてこられて2、3ヶ月で亡くなったということです。この門の両側には当時、 約400ボルトの電流が流れていた鉄線が張り巡らされていました。

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収容されたユダヤ人は、黒と白の縞模様の服を着せられていました。何故かというと脱走した時に分かりやすいのが、そのようなの黒と白の縦縞模様のデザインだったからです。実際、アウシュヴィッツ収容所の周囲は、広大な森が存在しており、その服を着て脱走するとすぐに分かるようになっていたようです。

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 アウシュヴィッツ強制収容所の敷地周囲には、400ボルトの電流が流れている鉄線が二重で張り巡らされており、現実的にここから脱走することはできなかったようです。しかし、 この電圧に 触れて亡くなる方も多かったようです。それは脱走を試みて電圧に触れたからではなく、絶望に陥り自ら電圧に触れたからです。

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 当日は非常に天気が良く 雲ひとつない秋晴れでした。ここが収容所と言われなければ、どこかの大学のキャンパスではないかと錯覚するほど樹木も美しく、また建物も整然と建てられていました。 しかし実際に建物の中に入ると、チクロンBと言う ガス缶(ガス室でユダヤ人虐殺のために実際に使用されていたもの)や収容された人の眼鏡、カバン、衣服、髪の毛、食器、靴、 義足 、髪のブラシなどが展示されていました。

 なぜ、ポーランドに収容所があるかと言えば、当時ポーランドはドイツの占領下にあったということと、地政学的にヨーロッパの中央に位置するポーランドは、他のヨーロッパ諸国にいるユダヤ人を鉄道で連行しやすいからという理由があったからです。

 ホロコーストの背景には、当時のドイツ人が裕福なユダヤ人に対する差別意識から芽生えたものが徐々に大きくなり、ナチス党のマニフェストになったとも言われています。このことについて、中谷さんは次のように力説していました。

ヘイトスピーチがホロコーストのきっかけになった要素は大いにあります。ドイツ市民が街角でユダヤ人に対する差別的な考えや発言をすることで、ドイツ第一党になりたいヒトラーは、そのような市民の声を党の考えに取り入れたのです。それら、ヘイトスピーチがひとつのポピュリズム(大衆迎合)を生み出した。決して、ヒトラーひとりでなし得たのではないのです。

 次回のエントリーでは、隣接する「ビルケナウ強制収容所」の訪問について書きたいと思います。


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