ポーランド旅行記-No.2 ビルケナウ強制収容所訪問




前回に引き続いてポーランド旅行のNo2になります。
本日のエントリーは、ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ第二収容所)の訪問について書いていきたいと思います。

小説「アンネの日記」で知られる、アンネ・フランクは、1944年9月にオランダより列車でこのビルケナウ強制収容所に到着しました。数日後、アウシュヴィッツ強制収容所に移送され、最後には、ドイツのベルゲン・ベルゼン収容所に移送され、その数ヶ月後に亡くなったとされています。ヨーロッパ各方面より移送されてきた、ビルケナウ強制収容所の鉄道の引き込み線。非常に有名な場所です。
DSC_0305-1

ビルケナウ強制収容所の広さは、総面積が1.75平方キロメートル、東京ドーム約37個分にも及びます ここでトータル110万人(諸説あり)が 虐殺されたと言われています。
DSC_0333-1

1920年当時、ポーランドはドイツの占領下にありました。 ヒトラーは、純粋なドイツ人のみをドイツの国にするという主義を唱えて、ユダヤ人の排除政策を打ち出します。当時、ユダヤ人は商才が長けて、ビジネスで成功してる人が多く、ユダヤ人はお金持ちの人が多かったようです。ヒトラーは、そのようなユダヤ人に対して嫌悪感と差別意識を抱いていました。

1933年に、ついにナチス党がドイツの第一党となり、程なくしてユダヤ人はゲットーと呼ばれる施設に押し込まれます。しかし、それでは完全排除という目的が達せられないので、強制収容所に送って虐殺することになります。実は、ポーランド国内には アウシュヴィッツ強制収容所の他にも、十数カ所の強制収容所があります。

後に「強制収容所」という名称は「絶滅収容所」に改名されました。当時のアウシュヴィッツ強制収容所は、ユダヤ人の他に、障害者、政治犯、同性愛者、ロマ人のジプシーなどが移送されてきてました。特に、ユダヤ人は移送後すぐに労働ができるか否かで選別され、労働不適とされると即ガス室に送り込まれ虐殺されました(シャワーを浴びると嘘をつかれガス室に連行された。) そして、この選別作業が、まさにここビルケナウ強制収容所で医師によって行われていたのです。移送されてくる人の約75%がその場で労働不適と選別され、ガス室に送られていきました。そして残る25%の人が過酷な労働を強いられていたということです。衛生状態も悪く、食事も満足に与えられず、過酷な労働も重なって、たとえガス室送りを免れても、たった数ヶ月で亡くなってしまうのです。

1945年ソ連軍によってドイツの敗戦が決まると、このガス室は証拠隠滅のためダイナマイトで爆破されました。しかし、完全には破壊できずにこのように一部残っています。ガス室のあった複合施設(クレマトリウム)の破壊跡。
DSC_0326-1

ビルケナウ強制収容所には、フランス、チェコ、ドイツ、オランダ、ハンガリー、ノルウェー、ギリシャなど他のヨーロッパ諸国からユダヤ人等が列車(馬を運ぶための車両を使用)で送られてきたのです。食事も水の支給もなく、また最低気温が氷点下にもなるこのポーランドへの移送中に息絶える人も多かったようです。
DSC_0317-1

この建物には主に女性と子供が収容されており、1棟に100人以上収容されていたと言われています。建物内部には3段ベッドがあります。しかし、もちろん1人につき1つのベッドではなく、この1段あたり3人ずつくらいで寝ることになっていたようです。
DSC_0346-1

DSC_0347-1

収容所施設内のトイレ。トイレにいくのは、1日2回までに制限されていました。当然、下水処理はなく、垂れ流しであったようです。そのため、非常に衛生環境が悪くチフスが流行っていました。
DSC_0340-1

当日、ガイドをしてもらった中谷さんが、TBSラジオに出演されていた際の音声が公開されていましたのでリンクを貼っておきます。
【音声配信】「耳で聴くアウシュヴィッツ強制収容所・見学ツアー〜荻上チキ渾身の取材報告」ガイドは中谷剛さん▼2017年10月19日(木)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」)